制約を外すことが成長
制約を外すとき、人は自由と崖っぷち立場を得る。
雇われの人は、無職だ。明日からどうするか?????
会社が倒産する時、社長は無職だ。明日からどうするか?????
家族の役割を放棄する時、自由だ。責任問題はどうするか????
そもそもが、他人や他者のシステムに従属して生きたことの精算が、解放と同時に始まるわけだ。
会社を2回潰してきた我が身としては、ずいぶんと遠回りしたものだと思った。
土地を得るためにお金を稼がなければならんと思い、とにかく稼ぐために法人化し、確かに必要なお金を得ることは出来たが、同時に失う財産も多かった。
欲しかった場所は、なんてことはない。。。既に地元の人にとって手付かずな状態で、伝さえあれば簡単に手に入るような感覚だった。土地を手に入れるためのお金…その思い込みが、余計なことをしでかした数年間だったと感じる。
法人、決算、給与、保険、会社法…税金管理
大きくビジネスを展開すれば、お金を稼ぐ仕事だけでなく、様々な制約が仕事時間をぶち壊しに繰る。
何もしなくてもお金がかかるように成り、元の木阿弥、利益を得るために走り続けねばならない。
自分から、ラットレースに巻き込まれに行ってるようなものだ。
これは個人事業から会社設立法人化と一段上に行った時の話。
結婚して家族を持ったり、雁字搦めの状態から子どもを授かったりも、童謡に厳しいだろう。
とにかく、他者の責任を自身が負ってはならんのだ。そのような生き方が地獄だ。
親となる責任を全うしているように見せて、生まれてきた子供に奴隷の生き様を見せるしかないとは悲惨な話だ。
子は子自身で生きるんよ。その子自身の人生だから。あーだこーだ制約は要らん。
人間の今までの制約。社会的地位がある人ほど、周りの目が多いほど、この重い制約から抜け出すには時間と根気が必要だと思える。
しかし、いずれ精算は果たさねばならない。自分が何者でもなくなったとき、そこからが本当のスタートだ。
常に、自分自身の生き方は自分自身で舵をとる。自分自身に対する責任だけでいい。
なぜ他者を指図できるであろうか、なぜ他者に制約を課すなどできるだろうか。
親子関係であってもだ。家族間であってもだ。生き様を自分自身に律する限り、言及はありえない。
人生は我がもの。思うままに生き貫くことよ。
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