暮らしようこそ ✾ Forest Life's Memory

人里離れた森の暮らしの雑記帳

人間問題 - 科学について

有史より代々受け継がれてきた人間社会のゴミと向き合う

科学的思考の弱点を知る

(記:2020.06.25)

人間の抱える多くの問題について「科学的思考の弱点」へと焦点を宛ててみる。

「科学」は解き明かす学問。歴史上の学者たちの「発見」が =「物事の成り立ち」として語られる学問です。

物事を分析することで「仕組み」を理解し、「再現性」を確かめ、その全貌を明らかにしようと努力を試みています。 それらの科学的研究には日夜膨大な(人の一生が棒に振られるくらいの)コストが注ぎ込まれています・・・

科学的な視点の落とし穴

問題がいくつか。まず科学では「まだ解明できてない(解明する気のない)存在を認知できない」ということ。

しかも「専門家や講師」が「認知できてない所を最初から存在しない前提で説明し、学生たちに正否を押し付ける」という重篤なバグを孕んでたりしました。暗に科学は「認知できない、解らないものに対して無力さをさらけ出す学問」だと言うことです。

思うに、科学が主要学問として受け入れられる背景、科学に分からないことはない!と主張する心理の裏側には、解らない存在に対する不安の現れを強く感じ取れます。何らかの理由で解らない状態が恐いから、解き明かそうとするし、未解明の部分を隠して亡きものとする。 ウイルスにしてもコロナにしても。莫大な研究費用を投じておきながら、しかしその全貌は隠されたまま(?)の現状。(。。。)

人に分かりやすい部分だけ見せて、それ以外の不明瞭な点を見えなくさせてしまうし、秘匿された部分を人の意識から排除しがちで、何とも万能さに欠けます。

学習コストが重すぎる

それ以上に問題なのが子どもたちへの教育・引き継ぎについて。

科学や技術的なマニュアルが発展するほど2次曲線的に過去の研究資料が積み重なる。それらを全て学び取るまでに、膨大なコストがかかってくる所。でたらめな教育費と学習年月の割に、各々の実生活に役立つのかすら疑わしい勉強内容を辿ることになります。

仮に勉強?の成果として、エリートたちが最先端の研究施設に配属されたとしても、新たな分野の開発や実験に多大な設備コストを要し、企業が投資するなら、その科学は企業のお金の道具になるわ、学会での立ち振舞に政治的要因(つまり利権)が絡んでくる点も含めて、あまりにも制限が重すぎるのです。

人が何十年とかかってやっと公式に発表できる新発見というのが、実になんというか。その。。。遅すぎるくらい、恐ろしく大変な行程を踏まねばならないのですよね。

悲しくなりますよ。雀の涙ほどの人類の進歩のために、いや、進歩してるかも怪しい...利権とお金が絡んだ発明を世へ送り出すのに、どれだけの若い才能が煮え湯を飲まされてきたか。分かりますか?

科学の視点について

科学とは常に過去の、既に起こった物事の分析しかできない。
計測できた範囲のものしか認知することができない。
この世は、科学的に観測できない地点も存在している。
例えば、未来の事の起こりは現時点で解き明かすことができない。

開かない箱は中身の確かめようがない。

観測できない領域

科学が解き明かせる範囲で、延々と続くパンドラの箱を詳細に解き明かそうとするのは、解析されればされるほど「無理」が大きくなるでしょう。

遅すぎるんですよ。科学の世代では、理解の速度が。あまりにも。

この世に存在しうる物事の成り立ちや仕組みというのを、全てを具体的に解き明かすなどという、終わりのない夢を抱いてるような方々は、目を覚ますまで徒労を断ち切る術をもたない。

過去の史実を学ぶのに、科学の視点が参考程度にはなりますが。しかし科学で説明の困難な範囲が在りすぎるくらい出てきてることを察したなら、人々はこれまでの教義や固定概念を捨て去って、真意を自分自身で確かめようとするでしょう。 結果、物事の成り立ちはもっと直接的に、もっともっと手っ取り早く理解されるようになるでしょう。

では証明へ。

証明:矢が的に当たるまでの観測レポート

「証明:矢が的に当たるまでの観測について」

科学の視点は、その矢が到達する中間地点までしか観測できない。その過程を綿密に分析しようとする。
ダーツの矢が的に当たるまで、それらの距離には、常に中間地点が存在する。1メートル離れていたなら50センチずつ、50センチだったら25センチずつ、25センチの地点で12.5センチずつ。

科学的な観測視点で、矢が的に当たるまでの距離がどんどん近づいてますね。その中間地点の様子が事細かに把握できるような研究結果が得られていきます!
12.5センチの地点で6.25センチの中間地点を分析し、次は3.125センチ...次は1.5625センチ...分析しつづける労力もさながら、しかし一体いつになったら的当たりの証明に行き着くのか...?

科学的な視点を介して的外れな分析が行き着くまで事の把握を待ってたら、延々に結論に辿りつかないんですよね。そして事が開こった後に全貌が明らかになったとしても、それは手遅れなのです。


真実は何処にある?
その矢がどこに向かって放たれたかに目を向ければ、答えは見たまんま。
何をどう難しく考えようが、最初から結末は予見されている。
矢が何処に向かって放たれたかに意識を向ければ良いだけ。


「矢は的に当たる」

応用:理解速度を10倍速以上に早める方法

と、あまりにあっさりした証明で終わりました。ここまでの説明が長い。苦労しますね。

けれど矢の向かう先に意識を向ける視点は、応用が効く。例えば言葉を理解するのに、上の証明のように記事を一字一句を読み上げるのではなく、筆者の視点「どういった立場で(?)」+「どういった目的で(?)」を文脈から感じることができれば、ほとんど読み飛ばしでメッセージが伝わると思います。

物事の意図してるところを観る。その情報がどういった目的でそこにあるのか? 裏まで感じとること。感性が研ぎ澄まされるほど、情報量とその正確性、理解の速さが洗練されていくでしょう。

感性は「体感」によって培われる能力。物事を見て聞いて触れて嗅いで味わって感じ、それらを体感に落とし込むことで「自身の内に物事を正確に形どる力」として活性化するもの。

蔓延する情報化社会で、必要なものを一瞬で分かるようになれば、今後の生活にずっと役立つと思います。

まとめ

情報や存在は「どういった立場で(?)」+「どういった目的で(?)」書かれてあるかを観る。 形式や成り立ちに囚われず、意図している所を感じることで、それを瞬時に判断できる智慧が身につく。


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